【役場周辺から千足へ】

口留番所(復元)

 江戸幕府は、交通の要衝を管理するために関東・中部地方を主に20の関所と33の番所を設置しました。当時の檜原村は、甲州地域 と江戸(五日市方面)を結ぶ要衝で、その出入り口を押さえるという意味で口留番所と称されました。ちなみに武蔵国には、この番所を含め4箇所に番所がありました。
◎檜原役場前にあるバス待合所の西隣にあります。

◆岩舟地蔵尊

 岩舟地蔵尊は、檜原落城のおよそ30年前の永禄4年(1561)に平山氏重の妹(鶴壽姫)が、藤橋城(青梅市)の城主平山光義(上杉方)に嫁いだときに、近くの寺院へ寄進したものです。2年後の永禄6年に北条方の攻撃を受けて藤橋城は落城。鶴壽姫は落城の前に檜原へ帰され、寺ではこの地蔵尊を檜原へ送り返しました。光義は北条方に拉致されますが、やがて許されて下総方面 で帰農し、鶴壽姫も永禄7年に光義のあとを追って下総へ行き、子供(光高)を産んで幸せに暮らしたそうです。
◎橘橋拡幅工事のため撤去保存されていましたが、工事が終了したため地蔵堂が新築され岩舟地蔵尊を覗き見ることができます。(橘橋の東詰)


 

◆檜原城址

 檜原城は、築城年代などは明確ではありません。天正18年(1590)豊臣秀吉が八王子城(北条氏照)を攻めたときに、その支城の役割を担っていたために八王子城落城の後に攻撃を受けて落城(7月12日)。城主平山氏重は自刃したと伝えられています。中世の山城の遺構をとどめる城跡は、東京都の文化財(指定史跡)になっています。
◎檜原村役場の先の「橘橋」信号でT字路になります。このT字路の山側に大光山吉祥寺があります。吉祥寺の後背の山が檜原城址です。


◆春日神社(本宿)

 元応元己未年(1319)創祀と伝えられています。創建当初は檜原城の守護神として、城の鬼門にあたる雑司の小字“高畑”に祀られてましたが、その後に払沢の右岸に移り、現在地に鎮座したのは、棟札の記述により檜原城落城後ほぼ一世紀を経た貞享4年(1687)頃と思われます。例祭は3月2日と、9月15日。3月2日の『御飼神事』は東京都無形文化財に指定されています。
◎ 橘橋の信号を北秋川方面へ曲がって50mほど進んだ右側です。


◆御霊檜原神社

 平山氏重、氏久親子の霊を祀った、平山氏の祖である日奉氏の霊を祀った、あるいは宿辺少将橘高安の霊を祀ったなどと様々伝えられていますが、定かではないようです。
◎都道から千足沢の林道へ入ると、正面 に鳥居が見えます。千足バス停から2分。


平山氏重の墓石
 檜原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による北条攻めの際に攻略され八王子城落城の翌月に 落城しました。氏重の父政重は、北条の岩槻城攻撃に参加して、21歳の若さで戦死。幼かった氏重・綱景・鶴寿姫の兄弟を哀れんで、北条氏は檜原を含む広い知行地を与え厚遇しました。その恩顧に応えるため、氏重は檜原城と運命をともにし、今は千足の長泉寺跡の墓地に眠っています。 弟の綱景は八王子城へ入って討ち死にしています。
◎関東ふれあいの道、天狗滝への入り口にあたる千足。御霊檜原神社から林道を1分ほど登った右手の石段の上に長泉寺跡の墓地があります。

《逸話・源五郎岩》
千足の大向い裏山の中腹に大きな岩があります。檜原城が落城した時に、千足に落ち延びてきた平山氏重、氏久親子が「かくれ岩」にかくれていたところ、山で炭を焼いていた源五郎という男が、この岩の上から敵兵に知らせました。そのため平山親子は、もはやこれまでと自刃しましたが、その時に「源五郎憎き奴!」 とにらみつけたところ、源五郎は立ちすくみ、岩から落ちて死んでしまったと伝えられています。

 
 
追加内容を準備中です!